アート・デザイン
Cradle小林編集長特別寄稿
「新井満さんと出羽庄内」(前編)
12月3日新井満さんが亡くなった。
「千の風になって」で知られる新井さんだが出羽庄内との縁は深い。
新井さんを庄内に導いたのは作家の森敦。
森敦は、旧朝日村注連寺での一冬の体験をもとに書いた小説『月山』で、昭和49年に第70回芥川賞を受賞し、昭和56年8月に注連寺境内に記念碑が建った。記念碑には森の直筆で
「月山
すべての吹きの
寄する
ところ
これ月山なり」
が刻まれている。
その除幕式後に第1回の「月山祭」が開かれた。そして森を師と仰ぐ新井さんは第1回から毎回参加した。私が初めて新井さんと出会ったのは、多分平成5年の第13回「月山祭」。月山祭の存在は知っていたが参加することはなく、私は平成5年になって初めて行ってみたいと思い注連寺に向かった。注連寺本堂に続く寺の二階で開催された月山祭には全国から森ファンが大勢駆けつけ、森はすでに亡くなっていたものの中央の講師席には新井さんはじめ著名な作家、評論家が並んだ。講演は詩人の宗左近、そして森敦文学についてパネルディスカッションと続いた。私は驚きを隠せなかった。「何故、こんなに多くの人たちがここに集い……」。
月山祭のもう一つの楽しみは、「森の花見」と称する宴。夜になると、地元庄内のご馳走、特に「だだちゃ豆」、そして地酒に、全国から駆け付けた森ファンが車座になり酒を酌み交わし宴が繰り広げられる。森敦生前は森を囲み夜遅くまで交わりを深め楽しんだという。私は圧倒された。もっと早く、そして森さん存命の時に来て話しを聴きたかったと悔やんだ。月山祭は毎年8月第3週の土曜日に開催され、森敦は平成元年に亡くなるがその後も新井さんや、旧朝日村の皆さんが中心になって平成8年まで続けられた。
そしてここで初めて知ったのが新井さんの作った組曲「月山」だった。早速CDを買い求め聴くと、新井さんの甘く伸びのある歌声が響き渡る。その歌詞は、小説『月山』の森の文章からとったものだった。森の文章が新井さんの歌声となって耳にこだまする。
新井さんと森の出会いは面白い。電通社員だった新井さんは神戸支局在勤時に大手日本酒メーカーのテレビCM制作が縁で出会う。女優檀ふみとの対談相手が森敦で、このCMは当時大きく話題となった。この出会いから森との交流が始まり、ある日訪ねた森敦の自宅アパートで酒が進み、森からの誘いに乗って歌ったのがこの組曲のキッカケである。なんと新井さんは何度も読んで空で覚えていた『月山』の冒頭の文章に即興で曲をつけて歌った。はじめ何気なしに聞いていた森が自分の文章であることに気づく。そしてそのメロディー、伸びやかな歌声に聴き惚れた。ここから全10曲からなる組曲「月山」の制作が始まった。
新井さんがすごいのは、この10曲の、小説『月山』よりの文章の選択である。森敦はCDのライナーノーツに、「組曲『月山』の誕生」と題し、次のような意を書いている。「文章の選択はひとつの見方であり、批評となり、鑑賞となる。たんなる抜粋であることを越えて優れた洞察をもってなされるとき、その全貌を全く新たな角度において再現させる。小説『月山』を書いたのは私でありながら、この組曲に思いもよらぬ月山を知らされ目を見張り、素晴らしい旋律に陶酔し、感動もしたのである」。
詳しい経緯については、新井満『森 敦―月に還った人』(1992年、文藝春秋刊)をぜひお読みいただきたい。とても楽しく二人の交流が読める。
このようにして、森に才能を見出され開花した新井さんは、後に小説を書き昭和63年に小説『尋ね人の時間』で芥川賞を受賞した。新井さんは同じライナーノーツに、組曲「月山」の最初の曲「月の山」にテーマを求めるとすれば、「邂逅」であろうと書いている。思いがけない出会い、それはこの曲を聴いた人と、曲との出会い、そして新井さんと森との出会いへと広がる。
そしてその邂逅は、森を通した、新井さんと旧朝日村、出羽庄内への出会いともいえる。
このあとのことは中編、後編で触れたい。
中編は平成24年の注連寺で行われた「森敦生誕100年祭」のことを中心に述べてみたい。
写真提供:鶴岡市朝日庁舎、黒井卓也